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猶太人対策要綱

日本政府が対ユダヤ政策に関する一応の指針を定めたのは、1938年12月に開催された五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相による会議で、昭和初期における最高意思決定機関。1933年に初開催)においてである。首相近衛文麿、蔵相兼商工相池田成彬、外相有田八郎、陸相板垣征四郎、及び海相米内光政の5人は、「ユダヤ専門家」の計画について論議した。

大臣らは重大な二者択一を迫られた。日独防共協定がイタリアを入れた日独伊防共協定に拡大するなど、日独関係は年々緊密になっていたため、ユダヤ人を助けるために何でもするとなれば、関係を危うくするであろう。だが、11月に発生した「水晶の夜に憤激したアメリカを中心とした世界のユダヤ人によるドイツ製品のボイコットは、ユダヤ人の経済力及び世界的な結束の証左と思われた。また、日本がユダヤ人の支持を得たいのならば、これは絶好の機会であった。なぜなら多くのユダヤ人がヨーロッパから逃れており、亡命先を求めていたからである。内閣は多数決ではなく全会一致によって運営されていたが、同会議は深夜に至っても紛糾したままであった。

だが最終的に、合意らしきものは得られた。「猶太人対策要綱」と題するこの合意文書は、ドイツやイタリアとの関係を尊重しつつも、ユダヤ人排斥は人種平等の精神に合致しないとして、以下の3点を方針として定めた。

現在日、満、支に居住する猶太人に対しては他国人と同様公正に取扱い、之を特別に排斥するが如き処置に出ずることなし
新(あらた)に日、満、支に渡来する猶太人に対しては一般に外国人入国取締規則の範囲内に於て公正に処置す
猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値のあるものはこの限りにあらず
(旧字体や片仮名、旧仮名遣いを修正して表記)

3点目に示されている通り、この方針は純然たる人道的政策ではなく、あくまで日本や満州国の権益に資することを目的とした、政治的リアリズムに基づくものであった。この頃、対米関係の悪化を背景とした物資不足と技術革新の遅滞により、満州国経済は先細りつつあった。これを打破するための切り札として、ユダヤ資本の導入を図ったのである。

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こうして政府は計画の進行を許可したが、1936年に日独防共協定(翌年、日独伊三国防共協定に発展)を締結していたことから、ドイツとの関係を危うくする行為は行わなかった。

以後数年間、計画者だけでなく、ユダヤ社会のメンバーらも含めた会合が頻繁に行われた。しかし計画は、如何なる公的・組織的手段によっても、軌道に乗らなかった。1939年には、ユダヤ共同体による支援の分散を懸念した上海のユダヤ人が、上海へのユダヤ難民流入をこれ以上許可しないよう要求した。

極東ユダヤ人会議議長となっていたカウフマンは記者を通じ、日本への警戒心を緩めるようアメリカ社会に説いたが、フランクリン・ローズヴェルト大統領の側近で世界ユダヤ人会議議長のスティーヴン・サミュエル・ワイズは、「ユダヤ・日本間の如何なる協力も非愛国的行為だ」とする強い見解を示した(アメリカが日本に対して行った通商停止措置に違背するため)。1940年には、在米ユダヤ人の有力者との間にパイプを持つ田村光三(ユダヤ系学生の多いMIT卒で東洋製缶ニューヨーク出張所職員)が移住構想を進言したが、にべもなく断られている。

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2009年04月28日 08:49に投稿されたエントリーのページです。

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